学園煉獄

クラス軸を自分軸に書き直すための万里の紀行文

ゲーッ! 風俗の超人!!

つらいことしんどいことが沢山でグジュグジュになってた。

結局コロナデマーダーたちは裁かれぬまま、

コロナ禍はなんとなく終わった感じにされ、

死んでも構わぬ人間と貶められた僕の人権の残骸と元凶のウイルスだけが、

ないものとしてここにある。

 

参考までに、フランス王家が扇動したサンバルテルミの虐殺の犠牲者は、

だいたい13万人と見積もられているようで。

王権があったということは、人権がなかったということですよ。教養というやつですね。

 

虐殺といえば、メンタルがいよいよアウシュビッツみたいになっていたようで、

ベッドで仰向けになったまま、存在しないキノコを愛でる独り言を言っていました。

キアシヤマドリタケをナデナデしていたはずなのですが、

おかいことに僕の手には何もなく、見ていたのは漆黒に染まる天井。

「ああかわいい、かわいいね、丸くてかわいいね……」

一体何が丸かったのでしょうね。

 

それ以外にも人生踏んだり蹴ったりで、次から次へと困難が飛び込んできて、

「大殺界ってもう死語なんだっけ?」と思ったりしています。

動かないと人生は改善しないし悪化するばかりなのに、結局いまだに動けません。

 

 

そんなこんなで抜け殻みたいにインターネットをしていたのですが、

PCのおせっかい機能がなぜだか突然発動して、

数年前の同日に撮ったらしい写真を表示してきたんです。

 

それは大学時代から8年通っていた風俗嬢と一緒に撮ってもらった写真でした。

見た目も性癖も完璧に好みだった大好きな風俗嬢。

一目見ただけで涙があふれます。

桜が順々花開いていくように、胸から手足の先に向かって

ほんわか色づき弛緩し柔らかになっていくのがわかるのです。

みるみるうちに全身に温かさと瑞々しさとが戻ってゆくのを感じました。

 

ああ、もう一度会いたい。もう一度あの日々を。

また中学の悪意の中に投げ込まれようとも、高校の絶望に身を置こうとも、

そののちコロナで呼吸ができなくなるのでも、戻れるものなら戻りたい。

地獄の合間の8年間でまた同じ風俗嬢に入りたい。

こんな人生でも幸せな瞬間があったんだ!

 

そう、あの日々の体験がもしもう一度あるのなら、

人生あと一回くらい、そっくりそのままやり直してみてもいい。

恋愛至上主義に尊厳を踏みにじられたことのある人間には、

良質な異性との良質な性体験が何にも勝る精神の万能薬になりますからね。

 

いまの人生が八方塞りである現実は微塵も変わっちゃいませんが、

この瞬間のために生きたのだという一瞬を見つけられていること。

それは何にも代えがたい幸福で、神の救済にだって代わりうるものです。

 

これってつまりあれじゃないですか。ツァラトゥストラがいうところの、超人。

だから今は暗いベッドに寝ていても、おれは光の矢にだってなれるはず。

シングルマザーアイドルとかいうグロテスクな文字列を見た

推し活とかいう単語がいけ好かない。たまらなく嫌い。虫唾が走るし反吐が出る。

薄皮一枚剥ぎさえすればそれはグロテスクな支配搾取構造だ。ごまかすな。

ところが大衆はそれを好意的に受け入れ、喜んで身を投じている様子

正気の沙汰ではない入り口までを舗装された地獄とはまさにこのことだ。

 

そういったフワリとした地獄がまかり通るのはおそらく国教がないからで、

もし戦後にキリスト教化されていたなら、まがい物が蔓延る余地は少なかったろう

 

神の名により搾取が行われるとき、それはそれでグロテスクではあるものの、

名目として人間の不平等はない。思い上がった人間の全能感と選民意識は表に出ない

裏で協会勢力が甘い汁を吸うのだとしても、大衆に対しては優しい嘘をつき続けるはずだ。

 

図に乗る人間の全能感と選民意識がだだ漏れとなる今の推し活格差とは大きな隔たりがある。

 

神を代行するのであれば、せめて偶像であれ。徹底して偶像であれ。

搾取者が人間を自称するなど言語道断。こずるい欺瞞で言い訳だ。神霊になれ。

肉体を捨てろ。恋愛はダメだ力も祝福も平等に分けなければならない。

DQNやチャラ男を、おれたち負け組の上に置くんじゃない。

 

負け組が負け組としての道を歩み出すきっかけは多くの場合学校にある。

そこの支配者がDQNチャラ男だ。奴らを威張らせるのは結局のところ顔のいい異性である。

 

日本のアイドル業はこういった人間の理不尽な格差をマネタイズしているのだ。

喜んで他人に課金するのは、理不尽な世の中で心を擦り減らした者たちだから。

まさに業の文字にふさわしい。

他人を尊重する気があれば、それは安易に触れてよい領域ではないとわかるはずである。

生半可な覚悟で救うと言ってよい領域ではない。マネタイズするなら本気で救って魅せろ。

 

だからアイドルは徹底的に神霊的であれ。

自己の超越的な力を自覚し、どこまでも謙虚であらねばならない。

全能感を抱くなとまでは言わない。スパイダーバースを観ろ。

 

力には責任が伴う。神を代行するならばその力の行使は平等に行われる必要がある。

つまり不平等の極致である恋愛と根本から相反する対極に位置している。

 

人間でありたいのなら地に足をつけ、中庸と共に生きればよかろう。

人間でありながら神になりたいのなら、

そのグロテスクな矛盾全てを置き去りにするだけの超越した存在にまでならねばならない。

実力者なら他者を搾取していいというわけではないが、顔ではなく、

顔で下駄履いた出来レースだとも言わせぬほどの実力で集客したならば、

それは搾取ではあるまい。

 

だが顔という理不尽で最強の不平等による他に代えがたき要素が先立つ集客と、

金銭・名誉・承認の搾取であるのなら、それは神が神である所以の所業である。

単なるイージーな人生設計に、たくさんの可哀想な負け組を食い物として組み込むのなら、

アイドルは神として偶像であらねばならない。

 

所詮ただの人間でしかない単なる神のまがい物なら、われわれと対等である。

対等であるべきだ。対等でなくてはならない。

 

全て同じところからきている。全てが一連の関係性をもって密接に絡まり合っている。

顔がいい人間の人生がイージーモードであることも、

偽りの救いを求め搾取の列に並ぶ負け組達の心が擦り切れたのも、

前者から力を受けた勝ち組が後者を踏みつけて威張り散らしていられるのも、

全て恋愛至上主義による理不尽な不平等によるものだ。

 

だから我々は誇りを持って立ち向かわねばならない。

搾取の言いかえである「推し活」を我々の誇りをもって拒絶しよう。

神であるべき人間が、神通力を備えたまま人であろうとすることを許さぬようにしよう。

我々負け組の尊厳のために。

 

 

(※1)

顔のよい女性の中にも人生がままならない、決してイージーとは言えない人がいるらしいのは知っています。

顔が良ければすべてイージーだというつもりはありません。顔の良さにのぼせ上れた奴が、イージーなのです。

謙虚に踏みとどまり、宙に浮かず、ままらない人生を選んだ美人のことは、そこいらの人間より尊敬します。

(※2)

ももクロについて、年齢的にアレはまあギリOKだろうという感覚があります。

コンセプトとしてメンバーを次々入れ替えていく路線を拒否しているし、NGなメンバーはたとえどれ程可愛くても切っているからです。

あと個人的に割と楽曲が好きというのもある。

 

→ 個人的な感覚の整理

恋愛に関して恵まれた人間が、社会への肯定的認識を早期からはぐくみ、

周囲の恵まれない人間をこやしにしながら全能感と選民意識を培って、

社会で積極的に自己表現して利益を獲得していく……という路線がたまらなく嫌いで、

その辺が色濃くなければそこまで嫌いじゃない、みたいな感覚が俺の中にあるっぽい。

調子に乗ってるYoutuberを嫌いすぎて気が滅入っているのも近い理由ですが、アレについては炎上商法嫌いも混ざっているので更に輪をかけて超嫌いで……あ、「シングルマザーのアイドル」とかいうグロテスクな矛盾も炎上商法入ってますね。

誇りを持ちましょう。

町の歴史を見た

きょうは馴染みのない土地をちょこっと散歩した。

いろいろな発見があって楽しい。

 

今日のエリアは、フルーツ推しのフルーツ通り。

ぎゅるんぎゅるんに伸びたブドウに、しゃなりんと色づきはじめたプラム、

鈴なりのビワ、厳かなサルナシのツルに、園芸種の桑の実と、

どの家からもウチの子が一番ですと言わんばかりにご自慢のフルーツが張り出す。

 

そんな中で一軒の家が目に留まった。異様。その空間だけが色褪せている。

 

木造建築……と、いうわけでもない。

ところどころに工事現場の防壁みたいな板や赤茶けた鉄板も目に入る。

あまりに昭和然としていて、そこだけ時空がねじ曲がって破けているかのようだ。

 

こりゃ空き屋かなぁ、と思ってベランダを見上げる。

まだ晴れている時間だったが、やはり洗濯物の影はない。

道路に面した曇りガラスの奥に向けて感覚を砥いでみるが、

やっぱり人の気配はなく、その一帯だけが静かに沈んでいるようで、

木造の玄関の前には野良の桑の木が伸び始めていた。無論、園芸種ではない。

 

そればかりか、桑の隣には場違いな巨大な岩が転がり、窪みに水をたたえている。

ウワッ、ボウフラ生産工場!

夏場の地獄絵図を想像して思わず顔をしかめた。

なぜ玄関に岩が……

 

岩と言っても玄武岩的な黒ではなく、琥珀かべっ甲のように艶やかな赤茶色だ。

昭和家屋でありながらそこだけ妙に洒落ている。しかもよく見ると、

上部の水溜まりの底で細かい砂たちが光を折り曲げているのか妙な輝きがある。

これが不思議と奇麗なのだ。

そして水辺には、ちょこんと親子カエルの置物が。

 

そうか。

この岩、水が映える色なんだ。水が主役の岩なんだ。

 

塀のない庭には一面ドクダミが生い茂っていたけれど、

よく見ればいくつか同様に岩が置かれ、その全てに水溜まりがあってカエルがいる。

伝わる趣向が強烈すぎる。顔も知らぬこの家の主は、この小さな池を愛していたのだ。

おれもいいと思った。おれもその水辺を気に入った。握手したくなった。

 

そればかりか、木造の玄関もよく見れば趣深い佇まいだし、

板と鉄骨のベランダも、在りし日は可愛らしい色合いだったように見える。

家主はきっとセンスのある人だ。印象はすっかり変わっていた。

 

そわそわしながら郵便ポストを探す。

口をガチガチに巻いて封じる養生テープが、主の不在を物語っていた。

わかっていたが妙に寂しく、祈るようにもう一度曇りガラスの奥を見る。

気配のない室内。視線を落とせば、きらきらと輝く小さな水溜まり。

 

親族もこの家、壊したくないのかも。少しでも長く残っていてほしい。

いずれフルーツの賑やかな新築が経つのだとしても、一日でも長く。

アニメポケモン最終回感想! 冒険は続くったら続く!!

ポケモンセンター25周年を迎える。

記念キャンペーンではレベル25の特別なピカチュウが配布され、

持ち物はわざマシン25「からげんき」だという。

 

ちょっとまてくれ。

 

そこは「かみなり」じゃないか? わざマシン25だぞ?

24番の10まんボルトから連番で覚えている人も多いはずだ。

前作の特殊仕様では25番が「まもる」となったが、今作ではてっきり戻ったものだと思っていた。

まさか「からげんき」になっていたとは……! なぜに?

 

25周年のピカチュウに「かみなり」ならおあつらえ向きだろうに。

さては公式のヤツ、狙ってあえてやったな。SV発売当初から仕込まれていた壮大な伏線だ。

 

つまりはこれ、「OK! 次に進もうぜ!」っていう、

サトシから俺たちへのメッセージなんですよ!!!

 

 

ご存じのとおり、アニメ版ポケットモンスターには一旦の区切りがついて、

26年続いたサトシの物語も2023324日に大団円を迎えた。

 

その最終回の冒頭、カスミとタケシと別れる場面で流れたBGMこそ、何を隠そう金銀編のオープニング曲である『OK』のアレンジなのだ。

サトシが元気にOKと叫んで始まり、『次に進もうぜ!』と続く、サビで自慢の技「からげんき」が炸裂する、あの曲である。

まさにOKと言えばからげんき、からげんきと言えばOK。

 

これはもう、公式さん絶対に狙ってやっていますよね???

 

 

サトシの物語を締めくくる今期のアニポケ『めざせポケモンマスター』は、

1クールを丸々使った丁寧なエピローグのようで、

懐かしのカスミとタケシを迎えて、サトシが各地でポケモンたちと心を通わせていく姿を描いた。

 

チャンピオンとなって凱旋したサトシは、冒険の中で「ポケモンマスター」とは一体何なのか、

ある意味ポケモン界最大の謎について答えを出していく。

 

個人的に印象深かったのは第8話(1242話)の『ジュペッタのさがしもの!』だ。

新たな町に着いたサトシたちは、民家荒らしのジュペッタに悩まされる住民たちに遭遇する。

「捨てられた人形が恨みでゴーストポケモンになった」という図鑑解説から怨恨の線を疑うタケシ。

立ち込める不穏な空気を、サトシの一言がガラっと変える。

 

「俺、ジュペッタのことをもっと知りたい!!」

 

ハッとした。なんという奴だろう。

信じて対話しようというのだ。言葉も通じぬ呪いの人形を相手に。訳があるなら力になりたいと。

 

それがポケモンマスターだよ。サトシはもう十分ポケモンマスターだよ。

気がつけば僕は涙ぐんでいた。

 

そして最終回、サトシはついに全てのポケモンと友達になるという目標を見つける。

ピカチュウ、いつか俺がポケモンマスターになったとき、そこにいてくれよな

くぅぅ~~っ! プロポーズかよ~~!! 『うる星やつら』かよ~~!!!

 

ここでわかった。つまりそういうことなんだ。「いまわのきわ」なんだ。

ポケモンマスターというのは生き様やあり方なんだ。

チャンピオンになって達成するものじゃなく、ずっと続く目標、人生で貫く理念なんだ。

 

最終回ではサトシが自宅のお風呂でピカチュウと仲睦まじくじゃれ合うシーンがある。

ポケモンのことを第一に考え、進んで一肌脱ぐ姿も繰り返し描かれてきた。

これぞまさしく、ポケモンへの信頼と愛情を持ったトレーナーの姿だ。

友情とは、絆とは、優しさとは。26年続いた冒険が、そんな人類普遍のテーマに着地した。

なんと素晴らしいエピローグだろう!

 

 

カスミとタケシは家路についたが、ロケット団との因縁はまだまだ続きそう。

サトシとピカチュウの冒険はまだまだ続く。

いつでもふらっと戻ってきそうな、前向きで清々しい最終回。

サトシは俺たちに、さよならは言わないんだよ。

 

だから、OK! 次に進もうぜ!

アンチYoutuberの僕もようやくYoutubeのよさがわかったかもしれない

ねえ、Youtubeって何が良いんですか?

少し前まで若い世代しか見てなかったのに、今やアラサー世代も普通に見ているYoutube

周囲も次々ブルータスに堕ち、いつの間にやら築かれているYoutubeの包囲網。

 

え? お前も?

アレ一体なにがどう良いの?!

 

Youtubeに良いところなんてあるんですか?

調子乗ってる奴に荒稼ぎさせるだけの格差拡大クソツールじゃなくって?

百害あって一利なしの悪魔の発明では???

良さが深刻にわからない……

 

 

 

いやごめん。言い過ぎた。Youtubeにもいいところはある。

いくら僕が時代に取り残されたYoutubeの熱烈なアンチでも、

ヤツが特定分野の情報収集でgoogleを遥か凌駕する事実を否定はできない。

 

料理名で検索すれば、シェフが惜しみなくレシピを披露し、直々に調理のコツを語ってくれる。

10分そこらの視聴を終えれば、僕らの料理は驚くほどにおいしく生まれ変わる。

さすがはプロの教えだ。あっぱれ。ガッデム。ブラボー。

 

この点でYoutubeは確実に世界を変えている。まさに夢のツールだ。それは認めよう!

 

 

だがおもしろ動画よテメーはダメだぜ。

一体全体どこがどう良いのか。ちーっともわからん。

 

ヌルヌルギュンギュンと動きまくってキラキラ光るバリ強なモーショングラフィックならわかる。

単純にプレイングが上手すぎるゲーム動画ならわかる。

SUGEEEEEE!」ってなるからね。

でも巷で言われる「おもしろいYoutube」ってそれとは違うじゃないですか。

しきりにテレビが劣化したとか言われるけど、まだずっとテレビのほうが面白いと思う。

 

いやべつにYoutube動画の全部が全部つまらないとは言わないよ。

オモコロチャンネルで原宿の顔面に風船がビュフッってなる回、一瞬で表情筋やられたし。

あまりに面白すぎてしばらく笑いが止まらなかったよ。

 

でもオモコロってネットのオタク文脈に沿った広告会社じゃないですか。

Youtuberって単語が指してる層とは違うじゃないですか。

回収される前のARuFaは、今でいうYoutberの先駆けみたいな奴だったとしても……

 

 

 

で、そういうわけで僕、Youtubeってほんと何がよかったのかわからなかったんですけど、

お役立ち系の定期配信を楽しみにしている自分の中に、
「情報が欲しい」とは別の感情がいることに気が付いたんです。

人間の声が聴きたいような、誰かの温度を感じていたいような。それで合点がいった。

 

Youtube見ている人たちって、

喋る内容よりもむしろ、一人で何かをやりながらも誰かと繋がってる実感があるってことが大事なんじゃないか。
とりあえず一人でいても一人じゃないと思える時間が欲しいんじゃないかって。

 

小学生のころ、一人で寝るようになって、夜が寂しくてとりあえずテレビを付けていることがあった。

ドラマよりバラエティのほうが良かった。画面の色使いからして賑やかで声も明るくて。
それに近いんじゃないかと思った。そこに人がいることが大事なんだ。

 

それなら声のトーンは自然なほうが良い。

あんまりプロっぽくないほうが逆に良く部屋の余白になじむ。

一人の時間を過ごしつつも、他者と関わる場でしか埋まらぬはずの寂しさが埋まってゆく。

人間関係のいいとこ取りできちゃうんですね。

 

そうかあ、そういうニーズかあ、とね。妙に納得がいって。

ようやくYoutube文化が腑に落ちた、という話でした。

ウギャアニメ

日々積みあがっていく未視聴のアニメたち。

 

1話しか見てないトライガン、プロローグを見たきりのポケモンマスター。

ずっと見てないオッドタクシー、レビュースターライト、SSSSダイナゼノンに王様レストラン。

サイコパス 2期以降はタイミングを逃し、古いタイトルだと怪談レストランが気になる。

でもずーっと見ていない。鬱でダラダラ、寝たっきり!

 

しかもおそろしいことに、鬱と達で瞬時記憶がガバッガバになってるらしく、近ごろは考えたそばから忘れていくのだ。こうして書いておかないと、観ようと思っているアニメすらこぼれおちていく。おー怖っ!

 

 

ラインナップでは怪談レストランが浮いておりますが、

ちょくちょく面白いと聞く割に完全に履修ルートからすっぽ抜けていて、

これまでまったくノータッチで来たんですよね。そろそろ見ておきたい。

 

ラインナップの中では王様レストランまでが「最近のアニメ」って認識なんですけど、

この認識っておそらく結構世間と乖離があるんじゃあ、ないでしょうか。ないですかね。ないといいんですけど、ってことは多分あるんだろうな。

 

本当に「最近の作品」は上二つだけなんだろうと、世間のスピード感的にはそうであると。

うすうす気が付いてはいるんですよ。オッドタクシー辺りからもう数年前だって。

ちゃんとわかっているんですからね。

いるんですけどね、「理解する」と「腑に落ちる」との間には時に大きな隔たりがあるものです。

 

ああ、世の流れ早すぎる。光陰矢の如し。見切れる皆さんは1000万パワーなの?

ほんと、みんなどうやって着いて行ってるの……?

 

 

そういや先日、

「大人は発狂防止で正月に雑草の粥を食べ、冬至に柚子を風呂へ入れるのだ」

って趣旨のツイートがこの前バズっていて、なるほどと思った。

 

変わり映えのしない日常が来ては去り来ては去る中で、時間を捕まえておくにはそういうセーブポイントが必要なのだと。

季節にちなんだ節目を作って変わったことをし気を引き締める。ハレとケというやつなのだわ。

 

例えば、ひなまつり、こどもの日、七夕を「節句」と呼ぶのもそういうことなのよね。

ちなみに昔は9月9日にも節句があって、近代化に伴い廃れたのだそう。

 

節分も、もともとは1年を4回に分けていた行事が2月にだけ残ったものらしい。

旧正月のあと、立春の時期に当たる2月の節分は特別だったそうな。

 

節分と言えば豆まきだけど、節分の鬼の由来は寒さの化身で、節分も節句も元をたどれば行事の意味は厄払い。厄とは主に病気を指した。

日本の妖怪は境界に出るというけれど、鬼や厄が病気なら、季節の変わり目に体調を崩しやすいことから転じた思想かもしれなくて、なんか面白かった。interesting!

 

 

近ごろPM6時くらいまで明るいけれど、もしかして冬至から結構経ってます?

冬至を「先日」という時間感覚、世間的にはどうですか?

話題のアニメを何本もリアタイ視聴できている皆さん! 冬至は、先日ですか?

そのスピード感、ちょっと速すぎやしません?

待ってよ世間、置いてかないで! ヤァーッ!!

なけなしの人権を爆発力に変え敵を討つ呪文

人生すべての怒りと無念をこめた特攻を仕掛ける対象が、

偶然選ばれた不運な誰かや、社会とかいう漠然とした何かでもなく明確な加害者であり、

しかもその場所が法廷であるというのは、なんと健全なことだろう。

 

訴えて主張する術がないなら、訴えさせて争えばいい。

大学に入ってすぐの授業で習った気がするけれど、僕はその教えを忠実に守ったことになる。

 

コロナ拡大プロパガンダと戦う。

5類になるならなおさらだ。

僕ら基礎疾患持ちを含めた高リスク層を社会の合意で始末しようと、

連日デタラメを吹聴してコロナ軽視の世相を作った奴らの責任を追及する。

2020年下半期の絶望的な世相は繰り返させない。

 

「政府は早くコロナ弱者をトロッコで轢き殺せ!」

 

そんな耳と良識を疑う発言が全国ネットのお昼番組で堂々と流される、

あの異様な状況、あの頃から続くデマと詭弁とプロパガンダが、

人権侵害だと世に知らしめようと思う。もう無視はさせない。

 

 

自分を恥じて生きることこそ辛いことは、世の中そうそうないと思う。

自己肯定感や承認欲求という言葉がメジャーになって久しいけれど、

これらの言葉が流行る前から、僕はずっと自己肯定を渇望してきた。

周囲がいじめの対処を誤った子どもは、このドツボに嵌りやすいのではなかろうか。

 

暇さえあれば聞こえてくる嘲りの囁き。理不尽に振るわれる暴力と加害者たちの嬉々とした表情。

そういったものに削られ続けた自尊心がある閾値を超過して、

普通の人生に戻ることが決定的に困難になる瞬間というものは、確実にある。

 

加害行為をやめさせるだけではない。

一般の生徒たちの中にあっても、

なんとなく「恥ずかしい」あるいは「劣った」存在となっている被害生徒(児童)が、

かけがえのなく尊い存在であることを同級生たちに示し、

その自尊心をケアするプロセスが必要だ。

 

この劣後的な恥ずかしさの自己認識への固着こそ、

いじめの対処において最も注意して避けねばならない最重要事項だと僕は思う。

 

時間が解決すると言う人もいるけれど、僕の場合はまったくの逆で、

時間の経過や加齢に比例して、それこそ進行性の基礎疾患のごとく、

徐々にジワジワと確実に深刻に人生を蝕んできている。

 

あの時ちゃんと仕返しで来ていたら、きっと人生マシだったのに。

しかるべき時にしかるべき相手から尊厳を勝ち取っていたなら。

世界はもう少し明るかったのに。

 

当時なまじ成績が良かった僕は、内申書を気にして、反撃をしなかった。

いい学校に行けば人生を逆転できると嘘八百を吹き込まれていた。

 

いざ有名校に入ってみれば、

そこは自尊心を傷つけた人間が身を置いて無事で済む場所じゃなかった。

そこは全てに恵まれた勝ち組が暇さえあれば自慢を繰り返すディストピア

いじめられた人生を逆転したくて勉強したような奴は、

そいつらの全能感を育てるための肥やしでしかないと、入学初日に世界は色を失った。

 

生まれた時から定められている歴然とした恵みの差。

それを痛感し絶望し世界への呪詛を繰り返す毎日。

有名校がこんな場所だと知っていれば、

世の中がこうも理不尽で不平等だと知っていたなら、

せめてあいつらに仕返ししていたのに。後悔してもしきれない。

 

嫌な奴がいいめを見ている、他人が運良く幸せになっている。

そういう場面を目にするたびに思いは強くなって。後悔に後悔を重ねて。

 

自尊心が既存したまま過ごす人生の辛さはよく知っている。

けれども全てを投げ捨てたなら、きっとこれまで僕が普通に享受してきた、

少なくとも不遇の側ではなかった生活の諸領域が顕在化して途端に牙をむくのだろう。

あれほど不幸だと思っていた人生にまだ恵まれた部分があったことを知るのだろう。

 

そうだとしても、僕は自尊心を勝ち取るほうを選びたい。

他の何がどうであれ、自尊心がないことはつらいんだ。

ほとんどの価値はこの人生に触れるとたちまち風化し塵になってしまう。

 

なら人生をこのまま穏便に安寧に続ける意味はない。

もう二度と、侵略者にやられっぱなしでいるつもりはないし、

金のためにデマを流して他人の死を扇動するなんて暴挙が許されてはいけない。

 

コロナデマをメディアに載せて挑発し、

それに怒ったカモをわざわざ探して、訴えてフッかけて丸儲けだとよ。

幸いロクな人生じゃないんだ。徹底して戦ってやる。

 

なんともひどい話だけれど、考えようによってはこれはチャンスなんだ。

僕の命の尊厳のために今度こそ戦える。

いかにクソな人生だって、他人の金や道楽のために一方的に奪われていいはずがない。

 

僕ら基礎疾患のある国民は、奴らのデマで命を危険に晒されている。

死んでもいい存在だと吹聴されて、命の価値を貶められている。

僕は一度呼吸が止まっている。意識も失っている。あの日は確か2020年12月19日。

他人の金とワガママのために死の淵に追いやられた。

 

戦わないのはあり得ない。やられっぱなしになるなんてダメだ。

中学時代と同じ轍は踏まない。絶対に寿命まで生きてやる。幸い持病で短いんだ。

 

だからどれだけ辛いことがあっても、歯を食いしばって生きてきたんですよ。

それを他人の金儲けのために終わりにされていいはずが、ないじゃないですか。

何故、重症化する2割は犠牲にしようだとか言われなきゃいけないんですか。

その根拠として吹聴されるデタラメと扇動屋に、怒り猛ってはいけないのですか。

深刻に理解不能。それって黙って死ねってことですか? やだね。

 

どんなに惨めで無様な負け組の人生だろうと、この命には価値がある。

世間にそれを認めさせるべくデマと戦う。

僕には尊厳があると今度こそ主張する。二度と退かない。折れても戦う。

そして約束させるんだ。

 

新型コロナのデマや詭弁は、高リスク層への人権侵害であり、社会はもう二度とそれを認めないと。

 

どうせロクな人生じゃないんだ。自尊心を勝ち取ってやる。

ここで退いたら自己否定から永遠に抜け出せない。

だからやろう。滅びるまで闘争しよう。